灯台守の娘

〔検証〕澪

岬のはずれに、古い灯台がひとつ立っていた。潮風に灼かれた白い壁は、もう長いこと塗りなおされていない。守りをするのは、口の重いひとりの娘だった。村の者は、娘の本当の名を知らなかった。ただ「灯台の娘」とだけ呼んだ。娘の一日は、灯を磨くことからはじまる。夜になれば、光は決まった間隔で海を撫でた。船乗りたちは、その光を母のまなざしと呼んだ。娘には、母の記憶がなかった。物心ついたときには、すでに灯台と、寡黙な祖父だけがいた。祖父は三年前の冬、灯を磨いたまま、椅子で静かに息を引きとった。それからは、娘がひとりで灯を継いだ。村へ下りるのは、月に一度、油と塩を買うときだけ。娘の言葉は、日ごとに少なくなっていった。かわりに、娘は波の音の違いを聞き分けられるようになった。凪の夜、時化の前ぶれ、遠い船の軋み。海は、娘にとって唯一の話し相手だった。ある嵐の夜のことだった。海鳴りにまじって、誰かが娘の名を呼んだ。娘は、確かに自分の名を聞いた。村の誰も知らないはずの、本当の名を。「おいで」と、声は繰り返す。娘は、灯を落とすべきかどうか、迷った。灯を落とせば、沖の船は帰る道を失う。けれど、声はあまりに懐かしかった。娘は、震える手を灯から離さなかった。声は、夜どおし、名を呼びつづけた。やがて東の空が白みはじめると、声はふつりと途切れた。朝が来るまで、光は海を撫でつづけた。夜が明けると、浜に一艘の小舟が流れ着いていた。舟は空で、櫂だけが濡れていた。娘は、その舟を、しばらくのあいだ見つめていた。舟の底には、乾いた塩の跡だけが白く残っていた。娘は、その櫂を灯台の壁に立てかけた。それから娘は、毎晩、灯を磨きつづけた。呼ぶ声は、もう二度と聞こえなかった。けれど娘は、いつまでも耳をすませていた。灯台の光だけが、変わらず、海を撫でていた。

最初の分かれ道

ただ「灯台の娘」とだけ呼んだ。

  • 娘の一日は、灯を磨くことからはじまる。
  • けれどその朝、鏡のような灯の面に、見知らぬ女が映っていた。
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